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ちっちゃい島のでっかいガール(3)【完結】

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 2巻辺りまでは「一人ぼっちじゃない漂流記」「巨大娘とわいわいDIY」な楽しいキャンプ感ある話だったのだが、ラスト3巻は急にテーマが深まり色々言及したくなったので。

 みくるは通常サイズの人々が「当たり前」にやれることができなくて、いつも誰かに助けられていて。“一種の障害者”のように「15mの生きづらさ」を抱えていた。
「自分という存在は他人に迷惑をかけている」ような意識からか「全部自分でなんとかしたかった(P31)」というセリフに実感がにじんでいます。

 しかしみくるはただ巨大なだけで健常者だし、特に事情も抱えていないし。
「望んだ途端にそれは叶わない」ので軽く憂鬱・厭世的だったぐらいで。

 物語全体としての「みくるの課題」も例えば「珍獣扱い」「巨大娘を軍事力に利用しようとする連中」、あるいは「巨大娘好きがみくるを性的に見て接触・性的消費してくる」というようなわかりやすい悪人登場ではなく、それらの兆しは早めに退場させて。

 あくまでみくるの身の回り視点、「15mの生きづらさ」についてに視点やテーマを絞っていたのは焦点がはっきりしてとても良いと思います。他者が少ない島暮らしである舞台立ても大きいですね。

「進路か… ずっと今が続けばいいのにな(P50)」
も正直な気持ちで、島で暮らし島の人々に支えられたまま生きていけるだろうけど、
「おばあちゃんになっても 今と変わらない生活してるの想像すると なんか涙があふれてきて(P76)」
というのも臨場感ある言葉で。

 島というモラトリアムから望み通り都会に出てみたいと思っても、みくるは巨大ゆえに「人に迷惑を掛ける」ことが頭をもたげる。これは日本社会の「他人に迷惑をかけてはいけない教」の呪いであって、これはもはや「みくるだけの課題」ではなく「社会の課題」です。
「車椅子の人に優しい社会」が駅や段差にエレベーターを作るとする。
 そんなの健常者の自分には関係ない、あんなものは無駄だ削れとコスパ野郎がいうとしても。
 ベビーカーや大荷物を抱えた移動、そして自分が年老い車いすや杖をつくようになったとき、「車椅子の人に優しい社会」は「誰にでも優しい社会」であると気付かされるだろうし。

 近視が障害者と呼ばれないのは、他人の手を借りず自分の手間もほぼない状態で課題を解決できるメガネという物があるからであって、なければ弱視な人々と同じ生きづらさを抱えていることだろう。心ない人に「本当は見えてるんだろう」と傷つけられたりすることもあるかもしれない。
 メガネのように非常にスマートなものでないにせよ、「マクロスシリーズ」や「ダウンサイズ(アレクサンダー・ペイン監督、2017)」のようにサイズの違う人々が共生できる社会もありうるだろう。そうさせない障壁は「社会の課題として社会が解決」できるものと思う。

 ここで注意したいのは「15mの人といると、いつでもどこでも展望台!」「手のひらで運んでもらえるし!」という無邪気エピソードは良いとして、そこから「役に立つから共生しよう」という論に陥らないことが昨今の注意点だろうと指摘しておきたい。
 詳しく述べるのもはばかられるが、「役に立たないから殺そう」という陰惨な事件や、「他人をどれだけ役に立つ立たないかで値踏み」する風潮や論が大手を振るっているからである。

 これは障害を個人モデル(医学モデル)ではなく社会モデルでとらえよう、という国際連合で採択された「障害者権利条約(2006年12月13日)」にも沿う。
  ・障害の社会モデル(共生社会と心のバリアフリー)|公益財団法人 日本ケアフィット共育機構

「15mの巨大娘と障害者を一緒にするな!」
という声には、【障害者権利条約には、障害の定義がありません。】と答えることになる。なので文中では「ある種の〜」「生きづらさ」と表現した。生きづらい者同士を分断することに意味はない。
  ・障害者権利条約をわかりやすく(前編)合理的配慮について考える - 記事 | NHK ハートネット(執筆:ジャーナリスト 迫田朋子)


 P104「クジラ」のエピソードがいいなと思ったのは、困っているときに見ず知らずの人が助けてくれること、「名前も知らないけど連絡先も知らずそれっきりだけどあのとき助けてくれたあの人」の比喩のようだなと。
 そして「そういう社会や世界であってほしい」という願いでもある。溺れていたときの“夢”かもしれない、からこそ。
 それは、
「お金のことは大人に任せればいいんじゃない?(P79)」
「もっと純粋にみくるちゃんのやりたいことを考えたほうがいいと思う(P79)」
のだなと。
 そもそも「これだけのお金があるからこれだけの事ならできる」だと、主客転倒してしまってるし。まずは「どのように生きたいのか」「どのような社会にしたいのか」が主であるべきだし。予算やリソースが主ではなく、まずは自分が主でなくてはと。

 外の世界が不安で「悪い妄想だけがエスカレート(P70)」し膝を抱えるばかりだった彼女が、少しだけ世界の秘密を知って「私って小さかったんだなぁ(P109)」とつぶやくのは名台詞ですね。世界観が変わったことで、ラストのみくるの「選択」が決定的に変わったのだと思う。

 そういった意味では、「おばあちゃんになってもこのまま」な生きかたもアリか、とさえ考えるようになっているフシさえある。そういう独り身が合っている性格のかたもいらっしゃるだろうし。
 個人的にはたった一度の人生、やりたいことを考えたほうがいいと思う。その結果として、その後どんな選択をすることになっても、最初の実写映画版「ジョゼと虎と魚たち(犬童一心監督、2003)」のジョゼのような微笑み・思い出し笑いひとつ残れば、島でも生きていけるのかもしれない。みくるは「もう一人ぼっちではない・なかった」し。

“初めての下着”でアガる、のはとても女の子らしいエピソードでほっこりできるのはもちろん、「自分の生きづらさを小さな楽しさで少しだけ解消する」「そしてその積み重ね」という希望と未来ある話で。
 これが“素敵な衣装”だと他人に見せるもの、他人にどう見られるか、他人に自分をどう見せるか、というまた別のテーマが現れるのだけれど、ここは下着で正解だなと。
 喜々として外でくるりと回るみくるは服を着て下着は見えないが、「心の内側から少し変わった」爽やかさを振りまいていて。「内なる課題」に向き合ったからこその心軽やかさだなぁと。
 とはいえ初めての下着、なんて若い女子である本人にはなかなかの大イベントか。まぁそこまでのイベントでなくても、近所の百均に行って「これ便利だな」とたった数百円で生活をわずかに小さな改善することでも良くて。

 そして28話(タイトルでその話のネタバレになるので略)、も非常に重要な話で。
 きっかけは第三者のアウティングだったのだけど(そこはなんぼでも広げられそうだがそこそこに軟着陸しておき)、様々な試行錯誤の果にみくるは決断をしていく。
 例えば配信をするようになるが、これは下半身不随の車椅子生活や排便などを赤裸々に発信する配信者(渋谷真子さんや中嶋涼子さんなど)のような“発信”で。当事者の生活配信は己を理解してもらうだけでなく他の当事者や非当事者にも意義あることだなと。完成したトイレの施設の紹介配信が前者のオマージュにも思えてくる。

 発信により世界とつながり、だれかの扉を開ける事になったり。
 これはまるで私西九条自身の創作発表であったり、だれかの創作に触れる事そのものにも重なっていて。

 あと巨大娘文脈では“彼女が巨大化したのではなく、世界が小さくなったのだ”という「ワイズマン(外薗昌也)」で描かれたネイティブアメリカンの言葉を思い出すなぁと。(エラい昔に読んだのでおぼろげな記憶ですが)
G-ZONE : 作品紹介 : ワイズマン

ワイズマン

 あちらはアウティングというより、奇妙な現象の取材の過程で不思議な世界を体験していく、という話です。

 他者視点という意味ではしげるちゃん、りんちゃんほかまわりの人たちの心理描写やセリフ回しも優れていて、こちらももっと見たくなりますね。ただテーマがブレてしまうので、やるにしろエピソードを区切って主役をはっきり切り替える方向が良いかもです。

 みくるちゃんはいずれ「妖精のおきゃくさま」の店長さんのように、「与える側」「見守る側」になっていくのかもしれない。それは彼女にしかできないことであるし、「世界一特別」なことに思う。
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Nishikujyo Kitaraf

Author:Nishikujyo Kitaraf
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